藤巻幸夫 対談

January 13.2016

Porter Classic × 藤巻幸夫 対談

※HAPPY HOURでは編集を行っていません。ゲスト及び参加者の発言内容に対し一切の責任を負わないものとします。

 

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藤巻幸夫
1960年生まれ。元伊勢丹カリスマバイヤーとして知られ、数々の事業やブランド立ち上げを担当。2012年参議院議員となり、国土交通委員会委員に。2014年没。享年54歳。

 


 

 

玲雄

藤巻さん本日はありがとうございます。お忙しいところすみません


本当お忙しいところありがとうございます


藤巻さん

恐縮ですよ。緊張しちゃいます


玲雄

とんでもないです。ありがとうございます。克さんと僕が尊敬している方たちと夕方気軽に…


藤巻さん

イイですね~


玲雄

お茶しながらお酒飲みながら話す企画でして、気楽に、藤巻さんといつか是非と思いまして


藤巻さん

いやいや本当おこがましいですよ。分かりました。精一杯頑張ります!


玲雄

本当にざっくばらんで!


藤巻さん

全然ね、僕なんか本当に普通の家庭に生まれて、父親が東芝の地味な真面目なサラリーマンで、爺ちゃんが変わった人で、満州で朝鮮銀行のニューヨーク支店長やってた爺ちゃんだったんですよ。 結構スゴい格好して、アメリカ人の秘書を何人か置いてこんな感じで偉そうにこんな感じでパイプ吸ってる爺ちゃんの写真が家にあったんですね。太一って言うんですが。変わった爺ちゃんだったらしくて頭良かったんだけど、絵の才能があって頭良かったんだけど、半分は金融の才能があって当時はニューヨークの支店長ってのは1920年代だから日本がまだ強かったんでしょうね。 だからアメリカ人は秘書に抱えてニューヨークで朝鮮銀行か今の青空銀行って言ってたのか。その写真見たのがこういう爺ちゃんだったのかと思ったんですけど、(爺ちゃんは)逆に暴れん坊で酒飲みで、酒で最後潰して死んでるっぽいんですけど。 その太一っていう爺ちゃんには7人兄弟がいて…1番上が時男って言って、慶応の医学博士だったんですけど、生まれつき足と心臓が悪かったんでやっぱり絵描き、車の絵を、横浜のちょうど山下公園のすぐそばの部屋から海が見える所だったんで、  船の絵と車の絵を書きながら心臓の医者であり、そのおじさんが割とハイカラな感じで車の絵を書いて個展やりながら医者やってたんですよ。もう一方で、変わった人で、気象学を最初日本に作った人らしくて、どこだったかな岐阜に大きな台風が来るんでこのまま放っといたらこのうち川が氾濫して人が死ぬってのを予測して、人を移して人命を救ったってので、 そういう立派な人がいたんだけど、、、2番目の人は戦死して、3番目のおじさんは相当不良で、満州映画のカメラマンだったんですよ。藤巻良二って今でもWikipedeiaで出てくるんですよ。


玲雄

満州映画って何ですか?


藤巻さん

当時の戦争映画とか社会文化の映画だったんでしょうね。それで相当不良で映画監督やりながらカメラマンだったかな。そのおじさんの息子が僕の従兄弟ですけど、今でも60幾つで、ハーレーダビットソン乗って日本中旅してるような従兄弟がいるんですよ。それで割と変わった家系に…家柄が良いって訳じゃないんですけどやや、 金融みたいな、医者と、文化人が混じったような家で、いつも家とか小さい時行くと絵が転がってたり


玲雄

でお父さんは真面目な方で


藤巻さん

父親はど真面目なサラリーマン。家に6時半に帰ってって父親で、そういう家系に育ったんで従兄弟がぐちゃぐちゃの中で何が大人なのか何が正当なのか分からないままに過ごしてたんですよ。 僕は案外絵の才能あったけど。だけどその時、オレ何も出来ないなと思ってボーイスカウトやってもトップになれないし、テニスもやらされたんだけど、体が元々あんまり強くなくて小さい頃。 だからテニスやってもダメ、ボーイスカウトやってもダメ、エレクトーンも目指して頑張ったんだけど、音楽の才能が無くて、何やってもダメな子どもで。 それで小学校4回転校したんですね。父親の関係で。友達作っては離れちゃう訳ですよ。それで、小学校6年で最後で横浜の小学校の時、ものスゴいイジメに遭ったんですよ。 だから初めて目に砂を入れられたり、それでいわゆる、おじさんたちがハイカラだったからボールペンくれたり、シェイパーだったかなんだか全部取られて そういう目に遭ったんですよ。小学校6年と中1。完全にイジメられっ子ですよ。それで志か体は鍛えるようにして、中学3年の頃に今度そいつらを殴るみたいな事をやって


玲雄

高校はどちらだったんですか?


藤巻さん

横浜の神奈川県立港北高校っていう東横線の大倉山っていう所で、公立の割にはハイカラでブレザーにニットタイみたいな割とオシャレな人たちが多い。 僕は音楽科だったんですけどね。結構その頃は…78年から82年でしょ?割と文化って言うとおこがましいんだけど、体育館で映画上映会だったりとか、公立にしてはハイカラな奴が集まる、みんなビートルズの生バンドみたいなやってる奴もいれば、映画やってる奴もいて、結構そういう高校時代を過ごしていて。その頃から多分ファッションじゃないですけど、ブランドとかは知らないですよ。 でもなんとなくモノに興味を持ちだしたのが今でも覚えてます。高校3年で初めて「スターダスト」に連れて行かれて、その窓からいわゆるオレンジ色のランプが見えて、波止場ですよね。PXなんですよね。そういうのを見ながら何となくアメリカのモノに憧れたんですよ。 ところが、そういう家に生まれた訳じゃないから。大学の1年か18歳の時に知り合いのおじさんが本牧のPXに連れてってくれて、レッドウィングブーツをオレにくれたんですよ。それが最初のファッションというか。 それを強烈に覚えていて、そのおじさん達がみんな結構アメ車乗ったり、、、遊び人のおじさんと、真面目な父親を見ながら、不良じゃないんだけど、洒落てる人たちに憧れてったってのが大学生くらいの頃ですかね。 ところが技術も、デザイナーになる訳でもないし、どうして良いか分からないって言って、22歳で出会ったのが伊勢丹だったんですよ。もう何して良いか分からない。「仕事で何したい!」も無いんですよ


玲雄

それは募集があったんですか?どういうキッカケだったんですか?


藤巻さん

いや。たまたま恥ずかしい話なんですが、新宿なんて行った事も無くて、伊勢丹も知らなかったんですよ。なんかモノとファッションに若干興味を持ち出したのでデパートは有りかなって思ったんだけど、とりあえずあるパーティっていうか飲む会で初めて新宿の伊勢丹の1階で待ち合わせって言われて 新宿駅降りても伊勢丹知らなくて降りて初めて「伊勢丹ってどこにあるんですか?」って今でも覚えてる。22歳の時かな?それでなんとなく伊勢丹に初めて店入ったら結構綺麗だったんですね。今でも覚えてるんですけど、ちょっと照明が間接照明になってるのよ。 後々聞いたらブルーミングデイルズのコピーをしたって聞いたんですよ。間接照明でマネキンに照明を入れて、いっぱい並んでるでしょ?それで初めて大人になってこんなにモノが置いてあるんだって、面白いと思って、そこでピンと来て「ここに入ろう」ってそれで何のコネもないし、後々聞いたら何千人も受けて 何十人も入れないって後々聞いたんですけど、何か分からないけどとにかく面接を受けたらほとんど突っ返されたくらい、要は勉強してないから、ちゃんと何でここ受けたのかも答えられないしね。「なんで君来たの?」って言われたら「いや、勘で」とか「何でデパートに来たんですか?」って言うから 「百貨店ってあるから100個あれば1個くらいは合うかもしれない」って言ったら「君、随分いい加減だね」って言われて、後何か「売り文句ないの?」って言われたから「気合いはあるかもしれない、気合いと根性はあって センスは多分まだ無いけど、その辺の学生よりは、オレ学生のときは60個くらいアルバイトやってたんで働く事はやってきました」と、「アルバイトも稼ぐ事は知っている」と、「その辺のお坊ちゃんの学生よりは 多分オレの方が使えると思う」って売り込んで、それで転がり込んで入った。だけどデパートの中入ってもいきなりバーゲンみたいなので呼び込みさせられて


玲雄

それは83年…?


藤巻さん

82年ですかね。1982年か。だからまだ海外のブランドも3階のインポートコーナーにあるくらいで僕の所属する売り場は何だドメスティックだ、スーパードメスティックだとかいうブランドではないですね。ジーパンで言うとセンスあるのはEDWINくらいですね。 もうほとんど無くなっちゃいましたよね。エコーとかいうシャツ屋とかね、東京何とかっていうセーター屋とか、ほとんど今は残ってないんじゃないですか?残ってるのは大手ですよね。 オンワードとかレナウンとか。それで今でも覚えてるのが、あの人歩いてるのは今でも覚えてるんですよ。三浦和義が


玲雄

へぇ


藤巻さん

フルハムロードが入ってたから。僕、伊勢丹入って思ったのが「何でこんなに色んな人種がいるんだろ?」っていう。服の会社にしてみれば、言うとレナウンの会社の人たちは東大出てみたいな、そんな人もいれば、フルハムロードじゃないけどロンドンコーナーみたいのがあってね、 ロンドンのパンクのファッション置いてある売り場はこんな髪の毛した、近くに「椿ハウス」っていうディスコがあって、だから「椿ハウス」に行くような人たちがいる人もいれば、ウチの父親みたいなサラリーマンみたいな人がいれば、 「服の世界ってこんな人種がいっぱいいるんだ」って、これは僕は衝撃でしたね。それで僕はどっちかと言うとサラリーマンっぽいような人がやってるような 会社の所に配属されて、全然オレが憧れていた世界とは真逆の世界で、毎日1000円のシャツとか3000円だか5000円のセーターとか、1日中呼び込みさせられて、それを4年くらいやらされましたね。 そういう倉庫整理とか、「なんで商品を毎日入れて毎日返すんだろう」って。いわゆる大量仕入れ、大量販売、大量返品、なんとなく子供ながらに22歳なので、まぁ大人だけど社会人としては素人じゃないですか。なんで「毎日モノに溢れててこんな世界があるんだろう」って思ってたんだけど、それでも何も分からないでしょ? 日本の事しか知らないし。商売もやったことないでしょ。で、25、6で「仕入れに行ってこい」なんて最初行ったの岐阜ですよ! 岐阜ってアパレル屋があるんですよ。安売り屋の。でもってブランドもクソも無い、 とにかく安っぽい服を毎週水曜日にあれ休みだったの、、、取引先だからお金出してくれたのかな? 「仕入れに出しちゃえ」なんて、そこで初めて機屋ってとこに行って。織機見て、今でも覚えてますね。 僕洋服の勉強した訳じゃないから…初めて糸や生地を作ったりするの見て


玲雄

現場ですね


藤巻さん

先染め、後染めなんてね…それが洋服との最初の出会いで。それから転機は28か9のバーニーズですよね。バーニーズ・ニューヨークと伊勢丹が提携する、6人が何か選ばれたうちにたまたま選ばれたんですよ


克&玲雄

へぇ


藤巻さん

別に英語が出来た訳じゃないし、センス良い訳じゃないけど、たまたま僕はその時に仕えてた上司が後のバーニーズジャパンの社長になった田代俊明。シンガポールに長くいた人で英語もペラペラで日本語英語なんだけど 相手がユダヤ人だろうが何でもガンガン突撃するようなその人が上司になってその人に「お前は気合いが入ってるから来い!」なんつってそれで初めて、、、 僕海外行ったの香港くら、、、初めてアメリカに連れて行かれてスゴい高層ビルの70階くらいのピーター・マリノっていう 建築家がいるんですけど、そこの事務所連れて行かれて、あまりのカルチャーショックに死にそうになりましたね。だって広い所に何百人の建築士が模型を作っていて、その時初めて「建築」ってのを知ったし、恥ずかしいけど「インテリア」って事も知ったし、それで1か月くらいアメリカにいたのかな?、それでフランス行ってイギリス行って初めて洋服を見る世界と、 バーニーズ・ニューヨークって何の事かも恥ずかしい、、、知らなかったんです。7丁目の17丁目のチェルシーっていう地区でジーン・プレスマンが出て来て、紺のブレザーにボロボロのパッチワークして、リーバイスの501履いて、 今でも覚えてるんですけど白いシャツで、こんな有名な人なのにカッコイイなと思って。スーツも無くてボロボロのブレザーにジーパン履いて、スニーカーかなんか履いてたかな? 違う! オールデンのローファー履いてたんだ!オールデンくらいは知ってたんだ! 「あぁ!」と思ってね


玲雄

克さんがデザイナーズコレクティヴに出た時に


来てました。そのジーン・プレスマンのお父さん


藤巻さん

フレッド・プレスマンでしたっけ?


そうそう、ギンギンの頃ね。で、息子さんに代をそろそろ譲ろうって言ってて、息子さんも良く来られてた


玲雄

デザイナーズコレクティヴにはお父さんが来て、克さんの鞄を見られた?


そうそうそうそう


玲雄

バーニーズは仕入れた?


初めて買ってくれたよ!


藤巻さん

スゴいですよね~。そこで、何が衝撃かってバイヤー始めて1年間はバイイングにとにかく連れてかれるんですよ。1年間研修です。で、パリコレ行って、ミラノコレ行って、夜はこういう風にデザイナーと会食して。 で、フィレンツェ行ったら車がオープンカーでギャーギャー騒ぎながら買い付け行ったり、田舎の工場行って色んな所連れて行かれて、フィレンツェの山奥行ったりだとか、それで工場行って


編み物はそこが産地だからねこういう所は


藤巻さん

僕はスゴい感動しましたね。それでバーニーズ・ニューヨークってレーベル持ってて、デザイナーがいる訳じゃないんですよ。ファクトリーにそういう人がいるんでしょうね。それで全然知らないから ワーワー言いながら3か月後に行くとサンプルが出来て、また、あーだこーだ言ってそれをネーム付けて仕入れるっていうのを1年間見て、「あ、こうやって」オリジナルバーニーズ・ニューヨーク作ったり、あるいはアルマーニの会場連れて行かたら「ダブルネーム」っていって…


玲雄

当時は日本の百貨店はそういうのはやってなかったんですか?


藤巻さん

無いですね。ただみんな会社に来て会社のデスクで、外出た人もいるんでしょうけど、買い付けして自分の足で工場行ってってのはやってる人、数人いたんだけど体系的に、、、あと「アートディレクター」っていうのを初めて聞いて


「アートディレクター」ね


藤巻さん

「アートディレクター」って名前、伊勢丹いた時誰も知らない。「それ何ですか?」っていう


無かったですよね


藤巻さん

知らなかった。アートディレクターって今はあるけど当時はそんな職種の人いなかった。80年代の終わりは。で、その人がグラフィックを決めてイメージ決めて、イメージから入るというか コンセプトから入るというか「モノから入らない」という事をスゴく叩き込まれて

 

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