藤巻幸夫 対談
January 13.2016
※HAPPY HOURでは編集を行っていません。ゲスト及び参加者の発言内容に対し一切の責任を負わないものとします。
藤巻幸夫
1960年生まれ。元伊勢丹カリスマバイヤーとして知られ、数々の事業やブランド立ち上げを担当。2012年参議院議員となり、国土交通委員会委員に。2014年没。享年54歳。
玲雄
「モノから入らない」ですか
藤巻さん
コンセプトとか生き様とか流儀とか…やっぱイメージですよね。僕が常にその話したり、そしたらカメラマンが誰が良い写真撮っただとか、ポップアーティストは誰が良いとかリヒテンシュタインがどうだとか全然知らない。 恥ずかしくて、だから毎日が会話に付いていけないんですよ。だからメモして、日本に帰ってその人の本借りて、当時wikipediaも無いから本当に本屋に行ってリヒテンシュタインって言ってたなぁって、「あ、こういう絵を描いてる人なんだ」って。 恥ずかしいけどアンディー・ウォーホルって教育受けてないから知らなくて聞いた事あるけど「誰だそれ?」っていう、それで日本のアシスタントに「アンディー・ウォーホルってどんな人か調べて送れ」だとかね会話に付いていけないのが毎日恥ずかしくてね
克
ごく一部の人は知ってるけども、生で実際に現場で会ってて、これは何者だっていう、スゴい出会い沢山ありましたよね。「アートディレクター」とか昔無かったものね
藤巻さん
自分の知識不足が恥ずかしかった。それでね、だんだん「ブランドって何か」っていうのを教えられたんですよ。それは商品のこだわりの仕方を、色だったり、ディテールだったりだとか ちょっとした素材だとか、色んなデザインだとか、こだわってコンセプトから入り込むっていう。あと1番驚いたのが今でこそ当たり前に「VMD」って言葉が、ビジュアルマーチャンダイジングですか?その言葉を知らなくて 「ウィンドードレッサー」ってのがいたんですね。ウィンドー作る人たちが。それでサイモン・ドゥーナンって人に出会ったのが大きかったですね。 今じゃ全米で広告の世界ではトップらしいんですけど、その人がゲイで小柄なんですけど、男性と結婚してる人で、もうその人のウィンドーからマネキンから全部マジックのように売り場を作り、当時のバーニーズが本当に美術館みたいで、何かオレがいた伊勢丹って何だったんだろう?ってくらい… 水槽があってね、スゴい綺麗なジュエリーの横に深海魚が泳いでたり、何だこれは!と。 全部がショックでカッコイイ、何だろう!って、後、コンシェルジュデスクに黒人のカワイイ子が座ってて「How are you doing?」って、後は入り口に黒人のドアマンが立ってたり、何もかもが違う。「うわっこれはスゴい世界に来ちゃったな」と思って正直言って逃げ出したくなる気持ち。 でもとりあえず付いてくって、それでたまたま1人付いた上司の女性がコンスタンス・ダローっていって全米一のバイヤー、後のプラダの社長が私の上司になりまして、「とにかく英語は勉強しろ」って言われて「とにかく私が横に付いて教えるから」ってそしたらその人が後々なんですけどパリコレとか行くとその人が座らないと始まらないっていうパリコレの女王って言われてましたね。 Aの1に座るみたいな、その人の僕はお付き人、その人の鞄持ち。帽子を持って…
玲雄
ポーターですね
藤巻さん
本当にポーター、それこそね、パリのディディエ・リュドっていうヴィンテージ屋なんですよ。パレロワイヤルの中にそこにディディエ・リュドさんと親友で彼が全部ヴィンテージのエルメスだ、シャネルだの持って来て彼女に売ってるの良く見て、そしたら後々彼女のインスピレーションだとか彼女そのものと今のこうミックスして着ててスゴい格好なんですよ。その人の格好も。 出張中に帽子7つも8つも持ってくような、それこそ僕はその方の鞄持ちでどこ行っても笑われましたけどね。日本の奴に会うと「何あのおばさん?」って。それで日本に来たんですよ、1回。それで岐阜に連れてったその人を。 そしたら彼女は「日本に良いものあるじゃないか」って言ったの、今でも覚えてます。それでだんだん1年経ち2年経つと「何でオレ日本人なのにこんな外国のもの買う」っていう事とね、彼女のお陰で付き回ってるうちに海外のデパート行く度に思ったのが、みんなイギリス行けばハロッズ行ってもリバティー行っても、自分の国のものスゴい大事にするんですよ。 ニューヨークのブルーミングデイルズだろうがメイシーズだろうがアメリカ中心にしてもちろんパリのものもあるんだけど良い所に置いてるんですね自分の国のモノを。それで僕は3年経って、伊勢丹に「帰って来い」って言われたんですけど。 91年から2年くらいかな?その時に伊勢丹に戻ったら綺麗にこう、、、今でも覚えてるんですけど今で言ったらバーニーズと全然違う、何か造られた大理石と造られたギラギラしたシャンデリアがオレには冷たく感じて、昔色んな日本の商品があったのが無くなってて、その頃多分外国ブランドがいっぱい入りだした頃と多分合致したんでしょうね。 それで何かスゴい闘争心が湧いてきて、それで93年くらいからなんとなくど素人で入ったこの世界に入った僕でもバーニーズ3年いたって言うので、色んな日本のデザイナーとデザインするようになって、「こういう奴らと売り場作ったら面白いんじゃないか」って思って1994年に1階に真ん中に三角の売り場があってちょっと日本のデザイナーを集めて 「解放区」って言葉がピンときてその売り場を作って日本のデザイナーを集めて完全買い取りで、買い取りってほとんど無くてほとんど委託なんですよ。 それ何故かっていうと新人の時にモノを返品したり何とかする時にずっと見てて「なんでこんなに一生懸命作ってるモノをいとも簡単に返品するんだ」っていう事に…
克
今の大事なポイントなの。外国の輸入物なんかは買わされて、もちろん完全買い取りで。それで、今言った本当に一生懸命作ってる、立場が弱い、作ってる人達に対して「売れなかったら返品だ」とかそういうのが当たり前の業界だったの。 今、おっしゃったそれが、日本が変わっていく大事なキーでもある訳。大体普通、責任逃れしちゃうでしょ?委託だったら別に。意外にチャンスはくれるけど育たないんだよね。材料もかかるし、工賃もかかるし色んな事あるわけ。 だからさっきも言った分かりやすく言うと藤巻さんが最初の頃からだんだん業界がこういう風に変わっていくっていうのは実際にその流れをちゃんと聞けるっていう非常に貴重なんだよね。で、だんだんこの年になってくると もっともっと変な意味じゃなくてナショナリズムっていうか昔の職人さん、それからなくなっちゃう伝統を大事にしようっていう事をスゴく頭に入ってると思う訳。 だからみんなで美味しいお酒飲んだり話をすると必ずそういうの出てくるの。今の話聞いててスゴく嬉しいなと思う
藤巻さん
いや、嬉しいですよ。結局何も無い所からたまたまですよ。全部。伊勢丹入ったのも。バーニーズ入ったのもたまたまですよ。それでバーニーズ行きたいって言った訳でもないし、でも行ったらやるしかないじゃないですか。その転換期に何か起こるんですよ、いつも不思議と。それで「解放区」っていうのも売ろうと思ってる訳じゃないんですよ。 デザイナーって人達、デザイナーっていう人種を好きになり始めた頃ですよ。「面白ぇな!」と思ってね
克
バーニーズで鍛えられて、それで改めて日本も面白いものあるんじゃないかってその経験があったから出来た事だから
藤巻さん
そうですね。そしたら「解放区」が当たったんですよね。そしたら無名の僕だったんだけど上の人達から可愛がられるようになってその後にバーニーズで得たやり方があったんで「リ・スタイル」っていう売り場を作って あれから19年経ちましたけど、百貨店業界で唯一残ったいわゆるセレクト型の店を、 スタイルをリミックスするっていう自分の中で考えて作って、5割くらいは買い取りにして、その時に1つだけアメリカの連中達に習ったのは販売スタッフ達と毎日コミュニケーション取れっていう。 有名なバイヤーでも何でも毎日店頭で一緒に売るんですよ。セールスクラークって言ってたけど、当時
克&玲雄
現場ですね
藤巻さん
そう、現場。百貨店はセクショナリズムなんですね。仕入れる人は売り場に立たないし、立っている人は、今だいぶ変わってるかもしれないけど。変わってないかな? 販売してる人はその商品のストーリーとかヒストリーとか、僕、ストーリー・ヒストリー・フィロソフィーって言ってるんですけど、 モノにはやっぱり歴史もその人の想いもストーリーもある訳ですよね
玲雄
おっしゃる通りですよね
藤巻さん
これをアメリカで学んだんですよ。だから毎日一緒に、サラリーマンとはいえみんな軍団作って、「オレがこれ買ったのはデザイナーがこういう奴でこういう想いがあってこれお客さんに伝えてくれ」って、そしたら百貨店ってプライスカードみたいなの、オレあれ嫌で値段だけ付いてるのが。 「そんなの作らないで、会社のルール破れ」って、その代わり「手書きで良いからこのデザイナーの想いを少しでも言葉に書いてお客さん来たら一緒にデザイナーをお客さんに伝えよう」って、 そしたらそれが当たったんですよ。「あっ、これ間違いじゃ無かったな」って
克
後さ、ウィンドーショッピングって言葉ね、向こうは何も買わなく、、、
藤巻さん
楽しませる事ですよね?
克
そう。カップルだとか親子だとかウィンドー見ると楽しいっていうのスゴい進んでるからね
藤巻さん
もう劇場ですよね。百貨店が劇場化してましたよね、向こうは。日本は物売りですよ。いわゆるディベロッパー。ディベロッパーには失礼だけど、コンセプトがなかったんです。それで98年になって転機が訪れたのはこれやってるうちに、そうは言ってもデパートの体質っていうのは僕の体質とは中々、反体制派ですよ。 上は変わらないから窮屈な会議は多いし、ちょっと違うんですよね。去年の反省とか書かされて、「ファッションに去年の話とか無いだろ」って。これから売るのになんで去年の事、、、でも本当にやるんですよ。それで全部ボイコットして、「オレは出ない」って言って「代わりにお前らが出て」って、そしたら部下が怒られる。 嫌だなぁって思ったんだけど、でも98年に退職届け出したんですよ。何にも決まってないですよ次。そしたらその時の後の社長になった後藤っていうのが「何でお前あれだけ好きにやらせてるのに辞めるんだ」って言うから「怒鳴られてね」って「お前こんだけ好きな事やらせて、ここで逃げるのは卑怯だ」と「もう一つか二つ社史に残るくらいの事やれって」って。
玲雄
会社で言われるんですか?
藤巻さん
そう会社で言われるんですよ。それで「堂々と辞めるなら辞めろ」と。その時にたまたま伊勢丹って地下1階が食品売り場で地下2階は当時、ボイラー室だったんですよ。電気室っていうか、電気ボイラー室、そこを何故かトップの方はフロアーにするっていう。 要するに増所出来ないから縦に売り場を作っちゃうってとんでもない事考えてて、それでオレが辞めるって言ったらその人が「お前アイディアあるか?」って聞いてきたんで、僕はノッティングヒルが好きで、、「あんな街作ったら面白い」と思ってフロアーに街を作ったプロジェクトがあるんですけどBPQCって。 今でも残ってるんですけど、 「Bon Prix・Bonne Qualite・Bon Chic」って言葉自分で考えて、「GOOD PRICE・GOOD QUALITY・GOOD SENSE」。良い質で良いセンスで適正なプライスっていう。 それでAUX BACCHANNALES当時やってた連中が友達だったんで一緒にオープンカフェ作ってくれだとか、それとJUNって会社の親父さんがちょっと知り合いだったもんで、それで息子さんがセンスが良く、音のセレクトショップ作って。 3000品目オリジナルでチーム作ってフロア中に作ったんですよ。それが1999年ですよね、辞めたのが2000年、2000年に退社したんですよ。 だけどその後はキタムラってやったり福助っていったのも「日本を軸に仕事しよう」って決めて、それで1回会社立ち上げたものが色々あって失敗してそれでサラリーマン生活19年で…
克
あの、人生って順風満帆じゃないじゃないですか、特に昔の人が言ってる「失敗は成功のもと」っていう言葉。僕もそういう人生でイケイケの時とか、苦労した時とかもあるんですけど、やっぱり人って底におちたり、失敗しないと絶対ダメですね
藤巻さん
克幸さんの苦労聞いてみたい
克
僕はどちらかと言うと…
藤巻さん
僕なんかからすると、ずっと格好良くやってきて、しっかりやってきたっていう感じがします
玲雄
よく聞くのはカバン業界で、最初は凄い変人扱いされたって聞きますね。自分の鞄が中々分かって貰えない…
克
「何やってんだアイツ?」って必ず何か新しいこと作ろうとする時って、異端児扱いされたり、奇人扱いされたり、それが上手く行くとスゴく態度変えて。失敗すると「ザマぁ見ろ」ってね
藤巻さん
嫌な文化ですよね?
(笑)
玲雄
笑笑笑
藤巻さん
本当にそういう人多い
(笑)
克
でもそんな事ばっか気にしてたら…だからそういう意味では大体成功ばっかしてる人って信用しないから、何でもそうだけど。歴史美学も必ず負けを知った男とか、絵描きだったら一時期絵が 描けなくなったりだとか、段々自然に戻って行く訳じゃないですか?心が段々。やっぱそうなってくると藤巻さんは政治の世界に入って、もっと極端の事言うとチャーチルもそうだったし、吉田茂さんもそうだったし、ドゴールもそうだったし、政治家でもまだまだ沢山いらっしゃると思うけど、カッコイイというかバチっと決めて身の回りを決めるってそういうのスゴい応援しちゃうんですよ
藤巻さん
なりたいですね。まだまだなりきれないけど。そうしたいなって思いますよ。だから、今まさに「クールジャパン」って言葉、やっと日本を売り込もうっていうそういうタイミングが来てる時にたまたま何の風の吹き回しか(政治家に)なったんで
克
そういう人なんですよ藤巻さんは。人間ってそういうモノとか時期に必ずそういう人はあるんですよ
藤巻さん
関係ない話ですけど、福助をね、雇われ社長やって社長業勉強してみて、お金の厳しさとか教えてもらったり、会社を再建する術を教えて貰った。 それから自分で貯めたお金で藤巻商店っていうのやったり色んな実験したり、京都に森蔭大介さんっていうシャツでMORIKAGE SHIRT KYOTOっていうシャツだけで20年やってるスゴい奴がいるんですよ。 今度見て下さい。彼のシャツが好きで2年間口説き落として1回2人でシャツ屋もやったんですよ。西麻布の墓場の前で
(笑)
玲雄
またすごい場所に、、、
藤巻さん
2年間限定で。どうしても自分で立って売ってみたいと。彼は自分で製造できるんで、“CRUM”っていう自分で名前考えて。 チェック、ストライブ、無地、ボーダーこの4つしか持ってない。フランス語でやったら“C”と“R”と“U”が頭文字で、それで“M”が僕マッキって呼ばれてて、森蔭の“M”取ってそれで。 もう1人僕と一緒にやってた女の子がミヤちゃんで、それで“CRUM”っていうのを2年間、シャツとバックの裏地が着せ替えられるっていう特許取ってシャツの余った生地で中をボタンで取り替えられるっていう今でも売ってます。 京都のMORIKAGE SHIRTでは、それを2年間限定で墓場の前で人が来ない所で。カオタンラーメンの横のとこで
(笑)
克
良い意味で実験工房だね
藤巻さん
そういう中で色んな事やってるうちに、イトーヨーカ堂時代にさかのぼるんですけど、心臓病で倒れて、拡張型心筋症って診断されて今の薬飲んでるんですけど、一応、心臓肥大して7年後には亡くなるって言われて今年が7年目なんですよ。亡くならなかったよね。要は、薬と加圧トレーニングで心臓の代わりにふくらはぎとか鍛えたのが多分90(歳)までは大丈夫だろうって言われるくらい心臓も元気になりましたね。 その薬の影響なのかがむしゃらにやった影響なのか、左目の緑内障で(視力)失って、 ほとんど見えてないんですけど、だけどそうなればなる程不思議とパワーが出てくるんですよ。根っから明るいし、「生かしてもらってありがとう」みたいな…
克
大事な事だね、落ち込んじゃっておしまいじゃなくて「負けるもんか」っていうね
藤巻さん
もう冗談の連続だって思う訳ですよ。何が起きても冗談だって思うようにすると気が楽になってきて
玲雄
政治はどういうキッカケだったんですか?
藤巻さん
氏家齊一郎さんと会って、「あっ、日テレのオーナーだ」って思って「どうも!」なんつったら「お前面白いから政治家やれ!」って言われて。こっちが「クールジャパン」だ、「なんとかビジット」だなんだって聞いてて、氏家さんが「お前そんなやる気あるんだったら国から発信しろ」って言われて、それで参議院議員になったんですよ。不思議な出会いと不思議な事がいつも連続して…
克
引くんですよ。人を
藤巻さん
分からないですよね?。だから自分の欲得とかではないんですよ。それはモノが好きなんだなって、何かあればあるんだけど
玲雄
「政治家になれ」って言われて、そこからどうするんですか? 政治家になるっていうのはどういうプロセスなんですか?勉強始めるんですか?
藤巻さん
いや、何もしなかったです。たまたまいきなり選挙出て
玲雄
いきなり選挙ですか
藤巻さん
まず最初は「無理です」と断りましたけど
克
自分で決めるまでどれくらいかかりましたか?
藤巻さん
実は1年間は断りました。だって違いすぎるでしょ。だって政治学って勉強じゃないし、だけど氏家さんって方が去年亡くなったんだけど、語ってくれたんですよ僕に。 「参議院っていうのは、貴族院だと思う。お前が得意な分野で、「言う」のが仕事だ。衆議院っていうのは、全部の事を分かって法律を全部勉強してやらないといけない」 元々、参議院の貴族院っていうのは一つの分野を、その時今(こん)東光(とうこう)さんが出ましたよ。「文化を発信しただろ。お前そういう風に行くと、日本のこれだけの事やってるんだから、全国に仲間がいて文化を」って。だから貴族院なんですって元々
玲雄
初めて聞きました
藤巻さん
だからバッチの花びらが1個多いんですよ。貴族は昔、馬車で行った議員もいたみたいな…僕も知らなかった。「あぁそうなんですか」と。「だからお前みたいなのが議員なんだ。最近はタレントだの、何にも分からないような議員になってるんだけど、お前は参議院向きなんだ」って氏家さんに言われて。 「憲法が何だとか、TPPがどうだとかはややこしくてやらなくて良いと…お前はVISIT JAPAN、外国人を日本に招く為にどうしたら良いかとか、MADE IN JAPANをどうやったら全国に波及させて、そういう事に尽力しなさい」と。 それで1年後に、「だったら…」って言ってそこに江田憲司さんがみんなの党の幹事長が現れてものスゴく影響力ある人だったんで、橋本総理の秘書官やったり、霞ヶ関でバリバリのスーパーエリートなんで「逆に君みたいな人は必要かもしれない」って言われて「じゃあやれるだけの事はやってみます」って言って受けたんです。 そしたら比例区で落ちたんです。だけど僕は半分嬉しかった。実は。義理は果たせたと。氏家さんに「出ろ!貴様!」って言われてたから。オレ初めて80幾つの人に怒鳴られて
(笑)
玲雄
笑笑笑