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JOURNAL

2025/05/14 18:02

TEXT:Selected by Leo Yoshida

布哇・日系人たちの風景(1930年代「布哇毎日」掲載) / PORTER CLASSIC 2025 S/S カタログ「ハルナツ25」より

布哇・日系人たちの風景(1930年代「布哇毎日」掲載) / PORTER CLASSIC 2025 S/S カタログ「ハルナツ25」より

尊い姿

カウマナ在住 坂本 一兎

輝々たる初夏の太陽。
木陰一つもなく災天の下。
一日中祿に休みもせずに稼ぐ若夫婦の尊い。
勞働の姿を見る。
生ぬるい風が吹くほこりは立つ。
汗は顔を流れて背は格子の襯衣を濡らすが。
甘蔗切るナイフの光るたびに。
若夫婦の心はぴったと合ふ。
海に山にピクニックと騒ぐ人の多いのに。
わきめもふらず働き續くる若夫婦の姿は雄々しくて尊くて。
またたのもしいものである。

 

趣味の魚釣り

ヒロ市 齋藤 芙蓉

趣味の魚釣り。
それは漁師の魚釣りとは全然異なる。
そこに素人の魚釣りの趣味があるのである。
漁師としても大漁の時、珍しく大きな魚を釣り上げた時、そこに何とも言へぬ愉快を感ずるやうに、私ども共漁夫ではなくてたまたまの休暇を利用して魚釣りに親しむ者には、魚釣りの目から見ると何でもない魚でも數澤山釣れるか、それとも竿釣りで意外に大きな魚を釣上げた時の心持ち、否、それを釣り上げる時の心持ちは漁夫以上に愉快な心持ちにひたる事が出來る。これは素人魚釣りの何人もが同感であると想ふ。
今こ回來布する米國大統領が布哇に於て數時間の釣に親しむ時間を特に割かれたと言ふ事を新聞紙上で拝讀して非常に感鳴した。アメリカと云ふ大國家を双肩に擔つて居られる多忙な職に在られながら、尚少閑を得て魚釣りに親しまれる心境を想像する時、趣味の魚釣りとして私共の魚釣りとその心境に於ては少しも變らない事だらうと想ふ。
あの大海に向つてリールを投げる時、ヒユーツと手元 から釣り糸が伸びて行く時の心持、更にその投げたリールの竿を岩の割れ目に立てて魚の喰ひつくのを待つて居るがなかなか喰ひついてくれない。もう止めやうか、場所 を替やうかと迷ひ、その中には喰ひつくかも知れん、まあ、も少し辛抱しろと待つ、もういよいよ駄目めかなとあきらめて岩の上に腰かけて煙草でも吸つたり退窟しのぎに提て行つたウヰスキでも一寸なめて居る時、急にギリ ギリ ギリ ーーー とリールのほぐれて行く音がするとそらかかつたと竿の處に飛んで行く、その時の心持、それは全く夢中である。かかつた魚が全力を傾けて逃げやうとする時にはリールのブレツキを合して手元の糸を伸ばし、弱つて引く力のうすれた時、手元の方に戻つて來る時などは一生懸命にリールを巻く。
何回も何回もそれを繰返して引上げるのだが、糸の伸縮する時の心持ち何なとも云へない愉快さである。漸く海岸に引寄せても大きいのになると釣糸だけでは引上げられないのでかぎをひつかけて引上げるのだが、二十斤以上のものを引上げた時には思はず凱歌が擧がる。
リールでない竿釣にはまた竿釣としての面白味がある。餌をつけて投げ込む、廣い廣い太平洋に向つて豆粒ほどの餌を投げ込むのであるから考れば魚釣位馬鹿な者はないやうにも思はれる。併しその小さい餌を喰に來る魚の目の鋭さにも感心する。その小さな餌を見つけた魚がチヨコチヨコとつづく、それが糸から竿を傳はつて竿を持つ手に感じる、これがまた何とも云へない快感である。更にその餌を喰つた魚がギユーツと引て行く時の心持、竿が弓のやうに曲り糸は張り切つて右に左に動く、逃がさないやうに糸を切られないやうに海面と睨めつこをしてゐる時は他の何物をも考へない。只かかつてゐる魚の事のみである。それを釣上げた時の嬉しさ。海面二三尺の所まで上げた時、ぱつと落て逃げられた時の惜しさ、折角かかつたのに糸を切られて逃げられた時の残念さ俗に『逃げた魚は大きい』と凡ての人が笑ふが、逃げられるやうな魚は竿や糸に比して實際に大きいのであるから惜いのも無理ではなく、また後までも話の種となるのである。
僕はまだ本當に素人なので大きなのを釣つて來ても實際にそれを見ない人たちは大概話半分にしか聞かない、それで比の頃はいつもコダツクに納めて證據を残すやうにしてゐる。
これも要するに素人の魚釣り趣味の、魚釣りから來る稚氣であらう。

 

バンヤンの木

牧田 正臣

『グツバーイ』
おせんたく場に出かけてゆくママに何度も手をふつてさよならをすると、カツチヤンは、ハイビスカスの垣根のそばで立ち止りました。
雨があがつて、きらきらした青空です。むんむんとする土のにほひと葉つぱのむせるぬくもりでハイビスカスの花は、そこにもここにも、ぽかりぽかり赤い花びらをひろげてゐます。カツチヤンはバンヤンの木のそばで立ちどまりました。バンヤンの青い葉つぱが重なり合つて陽を照り返してゐます。
バンヤンのみきに、ありがゐるのが目につきました。一れつになつて、ありは上へ上へと、いそがしさうに上がつて行きます。
木の上だけ風が吹いてゐて、ゆらゆらゆれてゐます。
カツチヤンは、小さなありの行列を見てゐましたが、どこまでつづいてゐるか、ありと一しよにのぼつて見やうと思つたのです。
バンヤンの木に抱きつくと、兄さんがするやうに、うんと下の枝を兩手で握ると、體がかがまつて、足が地からはなれます。カツチヤンは一枝一枝用心しいしいのぼつて行きます。すると、とても涼しくなつていい氣持ちです。ハイビスカスの花なんか、びつくりするほどたくさん見つかります。おとなりのケチンの窓の中には、テーブルの上にオレンジが一つのつけてあるのまでチヤーンと見えます。
カツチヤンは、とても嬉しくなつて、だんだん上へ上がって行きますと、あつちこつち見廻しました。バニヤンの葉つぱがじやまになつてお洗濯場はよく見えませんが、エントツからけむりの出るのがよく見えます。
針金にかけてあるきものが、ひらひらと白いハンカチをならべたやうに竝んでゐます。よそのおばさんがその間を洗濯ものをほしながら通つて行きます。カツチヤンは、ふとありのことを思ひ出しました。見ると、よちよち續いてゐるのです。
『カツチヤン。ルナにおこられるぞ。カラボシだから』
下からどなつてゐます。見ると學校歸りの子供たちが二三人上を見上げて笑つてゐます。
『シヤーラツプ』
學校の生徒たちは、どつと笑ひ出しました。
『もつと上のてつぺんまでのばれるかい』
と、ほかの子供が言ひました。
『シヤーラツプ』
とカツチヤンはこの頃こんな言葉をおぼえてゐて、口ぐせになつてゐるのです。生徒たちは又、どつと笑ひました。カツチヤンもゆかいになって、木にまたに馬のりになつてみきを抱いてゆさゆさ木をゆさぶつて見せました。木がパサパサなりました。
『あらカツチヤンそんなところにゐるの、まあ』
お洗濯場から歸つて來たママさんがあきれて、立止まりました。生徒たちは、うしろを見い見い歸つて行きます。カツチヤンが見てゐると遠くの方へ歸つて行くのが見えます。
『ねえ、ありがゐるのママ』
『そうー、ありはえらいのねえ、カツチヤンはもう、おんりしない』
ママが言つて、兩方の手をのばしました。ママの手が足にとどく位のところです。
『ノウ、ミイ一人でおりられるの』
大人ぶつて、用心しいしい降りてゆくのでママはそれでも兩手をひろげながらにこにこして見てゐます。
『ハロウー』
ルナのみどり色のカーが道のそばから、カツチヤンに手をあげて通つてゆきました。
平つたいみどり色のヤネが、ピカピカ陽が光つて、目のまへをすうつと通るのを見るとカツチヤンはすつかり嬉しくなつて、ママのむねもとへしがみついて行きました。

*この原稿はPORTER CLASSIC 2025 S/S カタログ「ハルナツ25」からの抜粋です

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